東日本大震災被災地交流コンサート

大変ご無沙汰してしまいました。。。
ブログに書きたいことは山のようにあったのですが、パソコンを開いて、考えをまとめる時間がとれないまま、、、様々なコンサートや演奏準備に追われてしまっていました。

でも、今回のこの体験だけはきちんと文字で残しておきたくて。


6月19日から20日の一泊二日で私が常任ピアニストを務めている東京合唱団の皆さんと宮城県に被災地交流コンサートに出かけてきました。

このコンサートは東日本大震災の翌年から東京合唱団が中心となって毎年開催している「追悼チャリティーコンサート」の収益金で再生ピアノを被災地に贈る活動をしているのですが、そのピアノをお送りした施設に有志の団員でお伺いし、ささやかなコンサートをし、お送りしたピアノの状態を確認し、被災地の現状を自分たちの目で見る、現地の方々と音楽を通した交流をする事を目的に行われていて、年に1回から3回東北地方を訪れているものです。


私は昨年の岩手県内各地での交流コンサートに引き続き、今回2回目の参加をさせていただきました。

今回は石巻の保育園2園、仙台市内の福祉施設、名取のデイケアセンターを訪問しました。金曜日早朝に東京出発、お昼寝が終わった保育園の子どもたちと一緒にピアノに合わせてリズム遊びをしたり、団員の皆さんと一緒にカエルの合唱の輪唱をしたり、子供たちが大好きな「さんぽ」を歌ったり、ピアノのソロも少し弾かせていただいてとても楽しい時間を過ごしました。
様々な事情からこの保育園2園には電子ピアノをお送りしたのですが、、、先生方も子供たちもピアノ、ピアノと喜んでいる姿に実は私も団員の皆さんも複雑な思いでした。
電子ピアノが全ていけないわけではもちろんありませんし、何も楽器がないよりある方が絶対に良い!!のですが、なんでもあっと言う間に吸収していく子供達の耳にできればアコースティックのピアノの音を聴かせてあげたい、、と思ってしまいました。

団員の皆さんもそのように感じていたということを帰りの道々聴き、その確かな繊細な耳を持っていること、普段の前田先生の、そして前田先生のお父様からの教えが確実に根付いているのだと、私はそのことに感動してしまいました。
いつか、この2園にもピアノをお届けできたら。。。と皆で話をしました。


そして、2日目、仙台市内の春の森からという福祉施設では早朝10時半からのコンサートとなりました。こちらでは忙しい合間を縫って職員の皆さんが素敵な歓迎の装飾をホールに施してくださっていて、とても心が和みました。

こちらでは本格的な合唱やピアノソロをお聴き頂き、更に昔懐かしい歌を集まっていらした皆さんと一緒にたくさん歌いました。
この施設に入居されている方、その付き添いのかた、デイケア利用されている方、様々は方がいらっしゃいましたが、最初は遠慮がちに、そしてだんだんのってきて素敵な声で一緒に歌ってくださいました。最後のふるさとでは団員さんも私も、施設の皆さんもなみだなみだ。。。でした。皆さんが失ってしまったふるさとへの切ない思い、哀しみが歌を通して私たちにも伝わってきました。こういう、言葉にならない想いを伝えられるというのは音楽の力なのだと改めて実感しました。

ふるさとの後はまだ歌いたい!!アンコールの声が飛び、次の施設への移動時間ギリギリまで交流を続けました。

「またきてください!!」と口々におっしゃる皆さん。お元気なうちにまた訪れることができれば。。。と後ろ髪引かれる思いで次の施設へ向かいました。


昼食後、向かったのは名取のデイケアセンター。
こちらにお送りしたアトラスというメーカーの再生ピアノはとても丸くて温かい素敵な音色のピアノでした。こちらの施設でも写真のような素敵な手作りの色紙や花束をご用意して、みなさん楽しみに待っていましたと迎えてくださり、一緒に歌を歌い、ふるさとで最後の曲ですとアナウンスしたら、じゃあ、その前にこの曲をもう一回、あの曲をもう一回歌いたい。。最後じゃ嫌だと。。。みなさん音楽が本当に好きなんだなぁと、来て良かったと思いました。

なかなか頻繁に訪れるには金銭的にも時間的にも難しいですし、他にも来て欲しいという施設があり、、、でも時間の許す限りこうした交流を続けていきたいと思いました。


最後に、今回の旅のもうひとつの目的、被害の大きかった現場へ行き、鎮魂の祈りを捧げること、現状を自分たちの目で見ること。


初日にバスで案内していただいた、石巻の中心地だった辺りの復興状況…まだほとんど更地で堤防は完成しておらず、やっと出来上がってきている巨大な魚市場では被災した皆さんが遠く離れた仮設住宅にいるため働き手となる方がいないという状況を知りました。
今までパートで働いていた方々も海のそばでの仕事はもう辞めて欲しいと家族に止められる方も大勢いると伺いました。とても難しい問題だと思います。


また、門脇小学校(震災直前に完成した非常階段のお陰と日頃の訓練の成果で、校舎三階まで津波が来たにも関わらず、生徒全員が無事だったと話題になった学校)は校舎を保存するか壊すかが未だ決まっていないそうで、生々しい跡が残っています。その周囲は人は住めない地域と指定されたらしく、広大な敷地は震災被害の記憶を風化させない為の記念公園になるそうです。そこを通る予定の道路はなんと、3メートル盛土をしたところに作られるそうで、現在は1メートルほどその高さに盛土され、「この高さに道路を作る」という看板がありました。しかし、3メートルはものすごい高さです。全ての道路が完成するのはいつになるのか。。。そこは手付かずのまま見本だけがぽつんとありました。
こちらも堤防はほとんどできていません。広大な土地にわずかに稼働しているショベルカーの姿が。。。気の遠くなるような作業です。保育園の保母さんや園長先生がおっしゃっていた、東京オリンピックが決まってから、資材も人材も全て東京にいってしまった。。。という悲しそうな声が蘇りました。オリンピック事業の方が儲かるから。。とのこと。義援金や復興対策のために国から出たお金は工期が遅れるごとに物価の変動など、円安、などの影響を受け全く足りない状況なのだそうです。一体どうなっていくのか。。。


そして、東京に帰宅する直前に訪れた閖上地区は見渡す限り何もなく、住宅の基礎のみが残されている光景は痛々しいものがありました。

津波の到達した高さ約9メートルにあわせて作られた慰霊のモニュメントのあまりの高さ、こんな波が押し寄せたらひとたまりもないだろうと、その場にいた方はどんな恐怖だっただろうと胸が締め付けられる思いでした。その地区だけで約1000人の方が亡くなられたとのこと。自然の力の恐ろしさに言葉もありませんでした。

写真は撮りませんでした。というより、あまりにいろんな感情が自分のなかに渦巻き、カメラを構えることもできず撮れませんでした。しっかり自分の目に焼き付けようと思いました。機会があれば是非、皆さんにもご自分の目で見て、その地に立ってみてほしいです。なかなか難しいとは思いますが、震災直後の様子をご覧になった方はもっと衝撃を受けられたのかもしれません、でも4年を経過してなお、これだけ多きな傷跡が残っているということの衝撃も大きいです。口で説明するのも難しく、まして写真ではさらにお伝えするのが難しい…なんとも言えない状況です。

震災から丸4年を過ぎてこの状況。福島だけではないです。まだ、震災からの復興の道のりはほど遠いと感じました。

長くなってしまいました…。
音楽を通して繋がること、生活のためには何の助けにもならないかもしれない…でも、言葉を交わさなくてもその同じ空間に居て、同じ音に耳を傾けることでお互いに感じる何か…言葉を交わすよりもっと濃密な気持ちのやり取りができる…できたと思います。機会があり、時間の許す限りまた、この活動にも参加したいと思います。